せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

食べる、生ききる、生かしきる

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「肉食」について!

 

私は肉を食べる。魚も食べる。

美味しい肉や魚、大好きだ。

ベジタリアンやビーガンの方を

否定する気はないけれど、

肉食するな!と強要されるとたちまち困る。

 

いのちをいただいている。

その事を軽く考えているわけでは

ない。むしろ、私の生は

あらゆるものの死の上にしか

成り立たないとすら考えている。

その事に思いを巡らす度に

ほとんど泣きたい気持ちになる。

どれだけ謙虚に慎ましく生きようと

努めても、やはり私は何者かに

とって脅威なのだと思うと

みんな平等だなんてとても言えない。

食べられて本望だ、とも思えない。

例え食べられるために育てられた

としても、それは私の立場からみた

都合のいい解釈でしかない。

あらかじめ存在者の目的を決めるなんて

本当の意味ではできないことを

知っている。

 

 じゃあ、肉を食べなきゃ解決する

のだろうか?あるいはなにも食べずに

生きられる装置ができれば?

 

そうは思えない。

肉食のかわりに食べる野菜や穀物も

物言わぬだけであってやはりいのちだ。

また、なにも食べずにいられる装置が

できてもそれを造るには何らかの

資源を使うだろう。それはダイレクトな

生命でなくともやはり(地の)いのちだ。

 

だからといって、

「どうせいのちの上にしか成り立たない

のだから、ジャンジャン私腹を肥やせば

いい!」などとも思えない。

いただくからには、無駄にしたくない。

だから、廃棄になるとわかっていて

豪勢な食事を並べるパーティーは

嫌いだし、美味しく食べられるように

料理したいとも思う。

 

なんのいのちも貰わずに生きられる

だなんて都合のいい思い込みだし、

直視することから逃れたいだけのエゴだ。

すべて支配できると欲望のままに

いのちを弄びながら、自覚もなく

無駄にしていくのももちろんエゴだ。

もし、全存在者会議なるものがあったら

人間の罪深さを追求されるだろうな、

と思う。いきるために食べるのは

皆同じでも、人間のエゴは群を抜いて

生臭い。

 

自らの生臭さに辟易するが、

今から犬になるわけにもネギになる

わけにもいかない。これからも

人として生きていくわけだから、

改めて「肉食」について考えようと思う。

 

もはや食べ方だけの話ではないな。

生きることに対する、スタンスの話だ。

いのちをいただいて生きていることと、

どう向き合うか?ということ。

私はそのといにたいし、「生かしきる」と

答えたいと思う。

 

生かしきる

 

生かしきるということは、

愛をわけ持つかたちあるものである

存在者のいのちを認め、それを

いただいていることを認め、

いただいた自らが生ききっていく

ということだと思う。

(それは究極のあるを認める=愛すること

かもしれないな、と思う)

 

だから、無駄になるような扱いはしない、

ありがたく美味しくいただく、

私自身は生ききっていく。

存在者ができる限り生ききれるような、

世界にするために燃やし尽くしたい。

(いのちをもらわないことじゃない、

生き長らえることでもない。かたちとして

燃焼しきることだ)

そして、私が生ききるなかで

いのちを続行できなくなるならば、

一部でも生ききる誰かに差し出したい。

 

 

それでいのちの採算がとれたなんて

思わない。いただかれる側からしたら

どんな理由であっても納得できないだろう。

でも、存在者としてかたちある私は

他の存在者の犠牲や恵みなしには

生きられない宿命にある。

他の存在者もそうだろうが、

人間は統治する力を持ってしまった。

もちろん腕力でなく、知力だ。だから

いのちをいただかれるより、いただくこと

のほうが圧倒的に多い。それを存在者として

偉いからとか特別だからと勘違い

してはいけない。むしろ、なかなか

死なず、死なないゆえにたくさんいただく

ことを生々しく受けとるべきだろう。

だから人間においては、生命体として

「いきる」んじゃ足りない。「生ききる」

そして「生かしきる」でないと

とても割りに合わない。まぁそれかて

合わないだろうが、最低限でも

そうありたいと思う。

 

 

呼吸が浅くなってたのか脳が酸欠だ。

明日も生ききるために、寝よう(-.-)Zzz