せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

小説家の目線はシビアだ。
だが決して突き放す目線ではない。
むしろすべての在るものを、
とりわけ人間の心模様を明らかに
しようと努めている。
それは、切実な求愛に見える。
すべてのものを見いだし、そのままに
愛せぬものかと言葉を引きずり出し
紡ぐ様を思うと、それでこそ人間だ
という気がしてくる。

金のため、名誉のため、地位のため
平和のため、幸福のため…
そういうものを越えた懇願がみえる。
どれだけドロドロした感情や
救いようのない状況を描いても
どこか清潔さを感じるのは、
おそらくその懇願のためだろう。

愛するため目覚めさせるため、
徹底して人間を、エゴをあぶり出す。
そうすることで自覚なく手頃なやりがいや
幸せの城を築こうとする人間の
頬をピシャリとはたく。
なのに肝心の人間はとんだ勘違いをする。

「こんな恐ろしい人間がいるのか」
「こんなでもまだ幸せでよかった」


逆だ!無自覚な張りぼてを蹴散らしたくなる。

職業としごと

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日もぴっかり働きました。

思い悩むこともあるけれど、

おおよそやりがいもあるし

人間味がある仕事仲間や昭和っぽい

社風も実は好きだったりする。(ポッ)

 

 だから、職業としては満足している

んだけど、人間としてはたまた存在者

としての「しごと」について考えると

満足はできない。というか、満足したら

腐るよな。眠りこける一人になるつもりは

毛頭ない。

本来の「しごと」って、職業のように

簡単に言い表せるものじゃないと思う。

どちらかというと、生きざまに近いような。

でも、我々存在者が目指すのは

存在つまり愛に迫ることで、それは誰か

だけやればいいものでも

誰かはやらなくてもいいという

ものでもない。それぞれに異なる方法

異なるかたちで、「あぁ、これも

あるのか!」と驚くような各々のせかいを

開示していくことでのみ世界の広さと

深さを見いだせると思うし、

立体性を求めることで永遠性の輪郭を

もしかしたら感じることができるんじゃ

ないかなぁと思う。(二次元の絵が

時に三次元を超える立体性を見せるような

奇跡があればいいなぁ…なんて。)

また、座標にして集中や分散をみれば

共通項を見つける手がかりにもなるだろう。

 

多様で多面的なせかいが開かれていく

ことは、存在そのものへ迫っていくという

ことだ。もちろん存在そのものに″なる″

わけではないから、解明はできないし

その必要はない。わざわざかたちがあって、

意味を求めるのだから、そのものを

目指して全存在者統一になっちゃあ

本末転倒だ。

 

話がそれたが、つまりすべての存在者の

「しごと」は己のせかいを追求し

開示して世界の創造に関与することで、

共通の目標は愛に迫ることだと思う。

どんな切り口で愛に迫るか?が

「しごと」を左右するのだろう。

 

私の場合は、物語力の構造把握と

その開示という手法を主としながら

世界の創造に関与するんじゃないかと

思う。今のところ、それがしっくりくる。

生きざまの北極星として、

ある職業を挙げてはいるけれど、

本質はあくまでそこにあると思っていて。

また、簡潔なキャッチコピー?として

愛の翻訳家を(心で)自称している。

これ実生活でいっちゃったら

だいぶ怪しいやつだけどさ(笑)

あと、内在する弱さ醜さの肯定を通し

鬱屈や哀愁による存在者同士の

共感にある可能性を見いだしている。

分かち合いは、各存在者が世界において

足場をえて、真に自由にせかいを拓いていく

ためにこそ必要なのだと思う。

喜びや向上心、慈悲や正義を通して

分かち合う可能性を諦めたわけ

ではないが、そっちの切り口は

他の誰かがやってくれると思うから。

これが他の存在者への押しつけでなく、

「信頼」となるよう私も私の土地で

生ききらないとな。

 

 

 

 

 

 

自信は根っこ。「よう、ちゃんと養分吸えてるか?」

 

「把握しているぞ」というアピールは

いったい何なのか。

おおよそ、「どれだけ大きいことを

いっても所詮子供だ」という安心感を

得たいのだろう。だとすれば、ずっと

管理しつづけることはできないという

不安や一種の寂しさを感じている

ということか。だから存在感アピールを

してしまうのだと思うと、親というより

命ある存在者へ対する哀愁のような

ものを感じて、ピントを会わせる

ことを躊躇してしまう。

もうすこし年を取って、安心して

立場が逆転する事態に身をまかせられる

ようになればまた違うのかもしれない。

移行期間はちょっと難しいよなぁ。

 

 

どうやら頭が悪いとか自分の考えがない

ことに、かなりコンプレックスを

感じているらしい。思うに、それ自体は

今からどうにでもなる些細なことで、

本当に根深いのが「自信のなさ」だ。

だから、他人の選択に何かしら

不安要素を見つけ、怖がる。

自分が選ぶこと(またその結果をうけとる

こと)に自信がないからなのだが、

投影している自覚はない。

なにも選ばないなんてできないのに、

なるべく選択を避けようとする。

そのくせ、選択肢が広がるからと

勉強させようとするのだが

なぜ選択肢が必要ないと体現している

人の説教を素直に聞くと思うのだろう。

子供は矛盾に敏感だ。なめちゃいけない。

 

私はあまのじゃくのへそ曲がり

だから、納得できないという理由で

放棄していた時期もあった。

おそらく一番勉強すべきときに放棄

していた(!)でも後悔はしていない。

好んでやるようになったのは、

結果が出る喜びと世界がひろがる驚きを

発見してからだ。

もし勉強が選択肢のためだと

信じて義務的にやっていたなら、

生涯学ぶ楽しさを知らないままだった

かもしれない。

選択肢を広げるなんて綺麗事で、

結局進学のために勉強して

良いとされる会社に入るという

一つのルートしか認めていないから

「後悔してるでしょう?」なんて

いえるんだろうな。

自分の大事がわからなかったら

磐石そうな選択肢もそのレパートリーすら

意味ないのにね。

 

子供に勉強させたいなら、

自分自身が楽しそうに勉強することだ。

そしたら、見よう見まねで真似するよ。

 教養は、世界を翻訳者し

自らのせかいを拓くためのツールだと思う。

あくまで手段だ、目的じゃない。

だから金、学歴、就職先、資格、婚姻等も

もちろん目的じゃない。

生きることにゴールなんてない。人生は、

生の起源から終末までの

「軌跡」のことだ。それはまさしく、

連続であり過程だろう。

ゴールと感じる区切りも、

結局過程の上にある。最終ゴールと

思える死にいたっては、生の外にある。

私たちに関与できるのは、あくまで

生の終末までなのだ。終末は死ではない。

終末のさきにある死まで関与できると

思い込むからおかしくなる。それに傲慢だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはなんの話だ

 

 

人件費は、確かに大きい。

同じだけの利益をあげようとすれば、

単純にその分売ればいいわけじゃない。

純利益はそう多くないのだから、

少なくとも3倍は売らねばならないだろう。

 

現状の売上に加え、人件費×3倍。

あげられるのかといわれたら、

難しい。そもそも売上計上先が違うの

だから意味もない。

だとすれば、私はこの状況で

なにができるのか?

 

第一に考えられる道は、

コストカット策として雇い止めを

受け入れること。

つまり、自分の仕事が増えるわけだが

それはかまわない。

新しいことを覚えるのも楽しいと思う。

なにより、業務の一部になれば

やるほかない。

「今回は仕方なかったね、

次はここよりいいところに行けるよ。

ここなんてどうせ……」

そんな言い訳をしながら、彼らの犠牲の上に

私は給与をもらい休みをもらい

ひとまず安定した雇用を保障され

次の休暇の予定をたてるのだ。

 

次に考えられる道は、必要性を

説くこと。つまり、コストに見合う

仕事をしていると第三者的に証明する

ことだ。見えていない業務を

明らかにした上でこれからも

必要であるととく。

少しはプラスになるだろうが、

費用対効果があることを証明できるとは

思えない。そもそも、費用が高すぎる故に

見合う仕事になっていないと

私自身思っているのだから。

もちろん本人がそれだけもらっている

はずはない。いわゆる中抜きで

ガッツリ持っていかれているのだ。

 

雇用システムの問題は深刻だと思う。

さぼっている訳でもなく、むしろ

これから続けていこうという

気概に満ちているのに、それとは

かかわりなく戦略の流れで簡単に切られる。

人を人と思わなくさせるのは、

雇用システムという環境によるのだと

つくづく思う。切ろうとしている側も

別に非人道的なわけではない。

競争化がすすむにつれ、

コスト意識も強まるし、人件費は

コストとして大きい故に真っ先に

手を入れるのはある意味当然だ。

 

労働力=金の図式は、労働者も

そうでない人も落ち着かなせない。

AIがさらに台頭してくれば

今他人事のように語る私も

文字通り他人事ではなくなるだろう。

人類は生存競争に勝てるだろうか。

食べ物もいらず、無駄口も叩かず

休みなく働ける彼らのほうが

人間以外の生存者にとっては

有難いように思う。全存在者のことばが

翻訳できるようになり共通言語が

見いだされればどうなるだろう。

これまでの残虐な行いを償うべく、

弁償しながら縮こまって生きる未来も

あるかもしれない。

 

 また飛躍してしまった。

でもやはりいちばん気になるのは、

どのように心のなかで物語を展開し、

いかにそれを言葉化して世界を拓くのか

ということ。未知の世界は

とても惹かれる。これは他人事だから

ではなく、自分が深刻な状況に

置かれてもまず思うだろうという

確信がある。絶望している自分を

観察している自分がいるはずだ。

その語り部が物語の観客であり、

世界とせかいをつなぐ立役者。

私のなかの語り部は、かなりアウトロー

感が強く、ド派手で大袈裟で

馬鹿馬鹿しい、そしてみたことのない

展開を好む。「…いいねぇ」と

唸らせたいがために、危険な香りの方を

選んできたのかもしれない。

それは、悔しいけど愉しかった。

そしてもっと悔しいことに、

これからもそういう選び方をするだろう。

 

 

 

 

 

死に体は生きたい。逆も然り

 

 

こんばんは、ぴーやまです。

ちょっと思うことをメモ的に

 

 

存在について考えるのがすごく楽しい。

無重力にいのちが躍動する感じ。

でも、それは死を考えることでもあって。

だから、死にたい!という衝動に

駆られることもあるんだけど、

それは死に(ついて知り)たい!

な気がする。結局、存在者について

考えるための材料というか、それをもとに

考えたいみたいな。好奇心に近い。

でも、死んでかたちを失えば

考えて引きずり下ろすことはできなくなる。

そのものになっちゃうからね。

私にとって知ることは手段で目的は

やっぱり考えることなんだよなぁと

つくづすおもう。だから、無謀にも

存在に迫り詰め将棋のように一つずつ

かたちを打ち出し見出だし、

最大限のアンサーを出しきって死にたい。

答え合わせして思いっきり違って

たら、めちゃくちゃ笑えるけど(笑)

笑えない状況だけど絶対笑うと思う。

 

死にたいほ生きたいだ、

そして生きたいは死にたいだ

 

 

 

 

 

食べる、生ききる、生かしきる

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「肉食」について!

 

私は肉を食べる。魚も食べる。

美味しい肉や魚、大好きだ。

ベジタリアンやビーガンの方を

否定する気はないけれど、

肉食するな!と強要されるとたちまち困る。

 

いのちをいただいている。

その事を軽く考えているわけでは

ない。むしろ、私の生は

あらゆるものの死の上にしか

成り立たないとすら考えている。

その事に思いを巡らす度に

ほとんど泣きたい気持ちになる。

どれだけ謙虚に慎ましく生きようと

努めても、やはり私は何者かに

とって脅威なのだと思うと

みんな平等だなんてとても言えない。

食べられて本望だ、とも思えない。

例え食べられるために育てられた

としても、それは私の立場からみた

都合のいい解釈でしかない。

あらかじめ存在者の目的を決めるなんて

本当の意味ではできないことを

知っている。

 

 じゃあ、肉を食べなきゃ解決する

のだろうか?あるいはなにも食べずに

生きられる装置ができれば?

 

そうは思えない。

肉食のかわりに食べる野菜や穀物も

物言わぬだけであってやはりいのちだ。

また、なにも食べずにいられる装置が

できてもそれを造るには何らかの

資源を使うだろう。それはダイレクトな

生命でなくともやはり(地の)いのちだ。

 

だからといって、

「どうせいのちの上にしか成り立たない

のだから、ジャンジャン私腹を肥やせば

いい!」などとも思えない。

いただくからには、無駄にしたくない。

だから、廃棄になるとわかっていて

豪勢な食事を並べるパーティーは

嫌いだし、美味しく食べられるように

料理したいとも思う。

 

なんのいのちも貰わずに生きられる

だなんて都合のいい思い込みだし、

直視することから逃れたいだけのエゴだ。

すべて支配できると欲望のままに

いのちを弄びながら、自覚もなく

無駄にしていくのももちろんエゴだ。

もし、全存在者会議なるものがあったら

人間の罪深さを追求されるだろうな、

と思う。いきるために食べるのは

皆同じでも、人間のエゴは群を抜いて

生臭い。

 

自らの生臭さに辟易するが、

今から犬になるわけにもネギになる

わけにもいかない。これからも

人として生きていくわけだから、

改めて「肉食」について考えようと思う。

 

もはや食べ方だけの話ではないな。

生きることに対する、スタンスの話だ。

いのちをいただいて生きていることと、

どう向き合うか?ということ。

私はそのといにたいし、「生かしきる」と

答えたいと思う。

 

生かしきる

 

生かしきるということは、

愛をわけ持つかたちあるものである

存在者のいのちを認め、それを

いただいていることを認め、

いただいた自らが生ききっていく

ということだと思う。

(それは究極のあるを認める=愛すること

かもしれないな、と思う)

 

だから、無駄になるような扱いはしない、

ありがたく美味しくいただく、

私自身は生ききっていく。

存在者ができる限り生ききれるような、

世界にするために燃やし尽くしたい。

(いのちをもらわないことじゃない、

生き長らえることでもない。かたちとして

燃焼しきることだ)

そして、私が生ききるなかで

いのちを続行できなくなるならば、

一部でも生ききる誰かに差し出したい。

 

 

それでいのちの採算がとれたなんて

思わない。いただかれる側からしたら

どんな理由であっても納得できないだろう。

でも、存在者としてかたちある私は

他の存在者の犠牲や恵みなしには

生きられない宿命にある。

他の存在者もそうだろうが、

人間は統治する力を持ってしまった。

もちろん腕力でなく、知力だ。だから

いのちをいただかれるより、いただくこと

のほうが圧倒的に多い。それを存在者として

偉いからとか特別だからと勘違い

してはいけない。むしろ、なかなか

死なず、死なないゆえにたくさんいただく

ことを生々しく受けとるべきだろう。

だから人間においては、生命体として

「いきる」んじゃ足りない。「生ききる」

そして「生かしきる」でないと

とても割りに合わない。まぁそれかて

合わないだろうが、最低限でも

そうありたいと思う。

 

 

呼吸が浅くなってたのか脳が酸欠だ。

明日も生ききるために、寝よう(-.-)Zzz

 

座右の銘こそ自分のことばで

 

こんにちは、ぴーやまです。

今日は「座右の銘」について!

 

座右の銘を聞かれたとき、

自戒のことばとして大事にしている

フレーズを答えるようにしている。

そのたびに、「誰の言葉?」と

聞かれるのが長年ひっかかってきた。

それはもちろん、「座右の銘は

誰かの言葉(有名人や歴史的人物)だろう」

という前提にたいするひっかかりだ。

 

何故誰かの言葉が座右の銘に

なり得るのだろう?

究極の場面(選択といってもいい)

ギリギリのところで一手を打つとき、

自分を貫くことばが力になる。

そのことばを他人が見出だしたもので

納得しているとは何事か。

確かにすぐ見いだせるものでは

ないから、若い時分は他人のことばを

「借りる」ことはあるだろう。

しかしそのなかで生ずる違和感や

収まらないほとばしりを追っていけば、

自分のことばを見いださずにはいられなく

なるのではないかと思う。

(他人のことばに振動することはあっても、

自分を貫くことばがまったく同じでは

有り得ない。存在者の多様性を考えれば

自明だ)

 

そして、そのことばでもって

「せかい」と対峙していく。

だから自分のことばには責任を

感じるし、存在者の仕事道具として

常に研いでいなければならないと思う。

 

 

最近、政治家や著名人の失言問題が

取りざたされているが、なんのことはない。

ことばに対する責任感がないのだ。

単に価値観の話ではない。

誰かのことばで論じようとするから

思わぬ方向へ飛躍してしまう。

だから反省すべきは言葉じゃなく、

自らの貧しいことばの方だろう。