せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

どちらが私なのだろう

 

少しだけ落ち着いてきた。

相変わらずぼーっとしてるけど、

なんとか生活はできている。

 

***********

 

去年の秋、もはや耐え難いと思った

ビックウェーブ。

今までは学生ということもあり

ごまかしてこられたけど

いよいよそうはいかなくなって

冬の終わりころから備えはじめた。

ことばと法則をつかみとることに

専念する準備もした。

 

そしてやってきたビックウェーブ。

無気力で頭も回らず圧倒的な

不安と焦燥感に包まれ、拳を握って

ひたすら嵐が過ぎるのを待つ日々。

 

考えも全くまとまらず、

パソコンの前で気づけば数時間

ぼーっとしてしまう。

ものを壊し言葉も出てこず

人の名前も覚えられない。

今まで接していた人との距離感

すら忘れ、挙動不審。

次にすべきことも想像できず

あたふたしてる間に

また次の案件がきてさばくことが

できない。

 

記憶喪失なのかと疑うほど、

数日前まで出来ていたことが

わからなくなってしまった。

とてつもなく怖かった。

正直、死の衝動に耐えるだけで精一杯だった。

 

 

いったいどちらが私なのだろう。

がらがら崩れたものを

もう一度積み重ねるとしても、

次の波を越える自信がない。

そうまでして、ことばを

見つけたいと願う私は

一体どこへ向かっているのだろう。

死んでもいいから生ききる、

そう言いきった私は

生ききる以前の生きるを

軽く扱っている。

生ききる前に死んでしまうよ。

 

 

内側に沈みこんでしまえば

ことばさえ届かない。

それでもことばに全部かけるの?

もとより生きるを支えるための

ものではないのかもしれないけど、

あまりに寂しい。

 

ただ毎日を、生きるを愛したかった

だけなのに。生きるを認め、肯定

したかっただけなのに。

なぜこんなに遠回りなんだろう。

難しいのだろう。

 

 

 

 

生きるは怖い、だから

 

 

生きる方を向いたら、

怖くてたまらなくなってきた話。

 

 

資格や結婚、保険など

セーフティネットを探してしまう。

終身雇用は崩れ、給与カットも

珍しくなく、病気で働けなくなる

リスクもあるものね。

みんな、必死で生きている。

確実なものなどない。

楽しいことばかりじゃない、

たんたんと営む毎日を

続けていくことは

全然当たり前じゃない。

 

 

社会性低め、女子力低空飛行

実家暮らしで甘ったれ。

一人きりで頑張る必要はないけど、

ふさぎこんで不機嫌な顔して

気を使ってもらってるのは

やっぱり変だよね。

いつも全力ダッシュはできなくても、

歩いたりまわりをみたり

できることはあるよ。

 

みんな色々かかえている。

1の後ろに10、20見えないものがある。

そして、1の手助けや気配りを

感じたならその背景に

見えないたくさんのそれらがある。

全然まわりがみえていなかった。

ミスや遅れで、自分ばかり大変な

気もちになっていた。

家庭のある人、役職のある人

病気持ちの人の方が大変だと

比べる必要はないけれど

想像して心配りはできる。

ポンコツでも、準備やツールで

ある程度カバーできる。

迷惑かけないようにじゃない、

すこしでも誰かの生活や働く、

つまり生きることが暖かくなるように

働こう。

 

ペースは違っても、生きる方を

向いて歩く。

今、たくさんの暖かさに

泣いてしまう。

生きるは怖いけれど、

だからこそ暖めあいながら

営むのかもしれない。

顔あげて、歩こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

内側へ沈みこみ

 

 

底に背がついたかもしれない。

 

みんなに生かされている。

申し訳なさでいっぱいだけど

与える方になりたいけれど

笑ってしまうほど頭が回らない。

一手先を読むのにものすごく労力を使う。

それでもなにか見落としてしまう。

すぐまた次がやって来て、

さばくことができなくなっている。

 

 

ぼーっとし、ぎこちない言動に

やってしまったと後悔し、

人との距離感がわからなくなり…

つまりは、空回りしている。

こんなんじゃ、給料もらえないなぁ。

 

 

 

たぶんこの状態もいずれ抜けるだろう。

でもまた来る。それがずっと続くことが

怖かったから、克服しようとしてきた。

抜けたときに貯金をつくるように

して、なんとか回してきた。

でも、少し疲れた。

 

 

ポンコツでもいい

ミスしてもいい

いつもにこにこでなくてもいい

気が利かなくてもいい

甘えていい

やる気でないままでいい

ぐずぐずすることあっていい

 

 

50年は気が遠くなるから、

まず5年。生命でも意志でも

執念でも。

 

生きる

 

たった三文字だけど、自分事の

三文字は、とてつもなく重い。

醜態さらしても迷惑かけても

意味なんてもとよりなくて

かたちを持たないことが理想的で

どうせ死ぬけど。

 

 

生きる  よう努める

 

…守りに入った(笑)

ベクトルをぎゅんと生へむかせることは

出来ない。

それでいいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

秋の哀愁ということにして

 

 

生きていることに、罪悪感がある。 

 

今まで生産より消費の方が多く、

守るより守られ、義務より権利が

与えられてきたと思う。

それはとても温かく、有難いことだ。

恵まれている、愛されている。

そういうかたちで、いつも認められて

いたのだと思うと胸が熱くなり、

耳がきいんとなる。

私にはもったいない。

そんなに渡されても、心からは喜べない。

喜んだ演技はできても、そう振る舞う

むなしさで、孤独が深くなる。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい

 

 

これからは人や社会のために

生きねばならない。役に立つために、

誰もやりたくないことを

けれども秩序を維持するために

或いは権利を守るために

なくてはならないことを。

苦しく報われず金にもならず

ボロ雑巾のようにいずれ使い捨てられる、

そんな割りにあわないことをしようと

無意識に思っていたのだと気づいた。

役に立つ、を掘り返したら

おどろおどろしたもんが

詰まっていて、もう一度埋めたくなる。

 

 

いつも罪悪感を背景に選んできた。

認めたくないけどね。

罪悪感を感じずにすむ方、

貢献することで罪悪感をすり減らすこと。

その方が、楽なのだ。

人がいやがること避けたいことに

手を挙げれば、役に立つ。

役に立てば少し罪悪感が薄れる。

だから、不登校児と仲良くし

理不尽な扱いに曖昧に笑い

報われない仕事を志す。

報われないけど、弱者や周りの人に

役立つ仕事。心も体も消耗するから

早く死にたい人間には

ぴったりかもしれないけど。

 

すきや楽しいを基準に

選択することにも、罪悪感がある。

なにも疑わず、すきや楽しいで

言葉や行動を選ぶ人がまぶしくて

ときに疎ましい。

心から怒ったり喜んだりする

豊かさを目の当たりにすると、

涙が出る。

 

感情を取り戻したと思ってたけど、

やっぱりどこか壊れちゃったんだろうか。

 

 

 

 

命のベクトル

 

 

生きたくなるように

自分を仕向けてきたけれど、

ふぅと息つくとき

死への衝動にかられる。

飛び降りそうになる自分を

ぎゅっと抱え、落ち着かせては

むなしくなる。

結局、死にたがりのまま生きている。

 

命にも、ベクトルがあると思う。

死に向かうベクトルは、

病的な気質として治療の対象と

されるか、反社会的なものとして

裁かれる。

臭いものに蓋をするように、

あるいは薄汚れて寝転ぶホームレスの

脇を足早に過ぎるように。

 

在ることを認めてはもらえない。

すべて生に向かうはずで、

そうでないものは病気か狂気だ。

でなければ、法や秩序はどうなろう。

あらゆる生産や社会は成り立たなくなり

正しさは綿菓子のように頼りなく、

何を根拠に立てばいいかわからない。

そうかもしれない。

でもさ、在るもんはあるんだよね。

なけりゃよかったかもしれないけど

どうしたって在るのだ。

誰に認められなくても、

解明できなくても在るのだ。

 

 

社会の役に立たなければいけない、

消費よりも生産を多くしなければ

いけない、関係を構築し

恵みを享受し生きることを

望まなければいけない、

病気や災害は乗り越えるよう努め

生きようとしなければならない

 

 

面白くもないのに笑えてくる。

なんでこんなことしてるのだろう?

生真面目な顔でやってることが、

おかしくて仕方ない。

生へ向かうことに興味がないのだから

それを支える諸々のことに興味が

ないのは当然だ。

 

死へ向かうベクトルは、

自然災害と相性がいい。でもせいぜい

台風や雷にわくわくする、

位が認められる範疇で

地震や津波、隕石衝突や氷河期到来

にわくわくしたらやばい奴。

そういう感覚はこれまで生きてきて

身につけてきたから、

気をつけていれば境界線を越えることは

ない。でも、氷河期が到来して

荒涼とした風景を想像すると

安らかな気持ちになる。

 

 

生きたい人の障害になること、

病気や過重労働や貧困や差別は

改善されるべきだ。それは、わかる。

だからといって、あらゆる障害さえなく

なればすべての人は生きることを

讃歌できるようになるとは思えない。

環境がよくなり病気は治るように

なり災害は予知できるようになる。

ますます死ににくくなるな、

とゾッとしてる人間は一定数いる。

尊重されるべきは、意志が生命か?

そんな問いだけが漂っている。

 

*******

 

起きたら目やにでまつげが

ひっついていた。

また朝がきた。

営むことすら考えず、

顔を洗いコーヒーをのみ

髪をとかし服を着替え

ホームの人ごみに加わる。

 

生きる。それは、意志だろうか

生命だろうか。

生きている、は現在進行形で

生きた、は過去完了形。

生きる、は過去と未来を根拠にした

現在進行形。

 

 

 

 

臆病もの

 

 

重く湿った不安感に襲われる。

息が苦しい。小刻みに背中が震えている。

 

生きなきゃいけない、苦しくても。

生きなきゃいけない、意味はなくとも。

 

生きている罪悪感は、消費に生産が

追いついていないからでもあるし

嫌々受け取ってるからでもある。

 

 

 

気遣い、コーヒー、大丈夫だから

 

優しさがもう、手いっぱいだ。

不機嫌な癖にビクビクしながら生きる

わたしなぞが、もらっていいはずがない。

返せるあてもない。

眉をへの字に寄せて、あとはどんな顔

したらいいだろう。

 

 

 

頭がまた、もやがかってきている。

またきたか。次は半年だろうか。

長くて寂しい冬。亀みたいにじっと

背負って待つしかない冬。

どうやって話していたのか、

笑っていたのか、日常をこなしていたのか

わからなくなってしまった。

数を数えることすら、あやしい。

言葉なんてうまくでてこない。

顔がひきつるのが自分でわかる。

いつの間にか一時間経っている。

そういう自分を、膜一枚隔てて

見ている。

 

 

怖い。どんな慰めも気晴らしも

払拭してはくれない。

怖い。

 

臆病ものだ

 

 

 

 

 

その感覚がわからなくて発狂しそう

 

 

結婚、出産、健康長寿

おめでとう、お大事に

 

わからない。

穏やかな会話であるほど、

発狂しそうになる。

かたちから解放されたいのに

なぜかたちを保持しようとするのだろう。

かたちが続けば、少しずつ永遠に近寄る?

続いていくこと自体が仮想の永遠?

かたちであることは即ち有限なのに、

何故繰り返すことや引き伸ばすことを

望むのだろう。人間お得意の

読み違えじゃなかったん?

 

当人が望む、という意味で

心を寄せていますよ、と伝えるために

おめでとうやお大事にと言うのはわかる。

でも、自分事に置き換えると

もうわからない。

まとめると、死にたくないという

気持ちを頭ではわかるけど、

心や肚で理解できない。

経済的に恵まれれば、容姿が良ければ

社会制度が整えば…

と、なにかを本気で怒ったり渇望したり

する感覚もわからない。

別に死んでしまえと思うわけじゃなく、

当人が生きたいと思ってて生きる方向に

進むなら喜ばしいよ。

でもさ、そもそもその生に対する

意識や感情のベクトルが真逆だから

「よかったね」が宙ぶらりん。

厭世的でも冷酷無比でもない。

恵まれている、消費してばかりでも

生きていけるのは当たり前なはずはない。

そうだね、有難いことだと思う。

そんでそのまま包み開かずに

中元返ししたい。

 

 

死ぬくらいならやめればいい、

死ぬくらいなら逃げろ、

どうせ死ぬならやりたいことを、

死ぬ気になればなんでもできる

 

わーーー

やめられるもんでも逃げられるもんでも

ごまかせるもんでもちょっとした

気の迷いでもないんじゃい。

 

 

 

幼い頃、生を讃えることって

一種の社交マナーだと思っていた。

人を見た目で判断しないとか

ありがとうやごめんなさいを

言葉で伝えるとか、そういう類いの。

自然にやるのは難しいからこそ、

意識してやること。

みんなそう思ってることを

疑ってなかったんだけど、

物心つくあたりから

「あれ?本心から生きることを肯定

してる人、もしかして結構いるんかな。

というか、みんな真剣に生きようと

してる?」とにわかに疑い始め、

成長するほど確信に変わった。

マジか…と思った。

だから大半の人の″死にたい″は、

″生きたい″である、というのは真なの

だろう。やっと納得した( ̄▽ ̄;)

 

生きようと芯から思うために

努力するもんだと考えてきたけど、

努力して得られるようなもん

じゃないんだなぁ。

なにかが満たされれば生きたいと

思うはず、という生に対する肯定感は

金でも時間でも買えない。

それだけに眩しいし、彼らがいなければ

とっくに息を吸えなくなってただろう。

とはいえ、できる限りかかわり

あいたくない。(笑)

お互い徒労感に苛まれるだけだもん。

適度な距離感を保つのがいいのでしょう。