せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

かたちであることと向かい合う

 

絶賛ぶっとばし期中。

開き直ってせかいを広げるために

世界に飛び込んでいこうと思う。

 

でもふとたちどまれば、

やはりかたちの虚しさに

胸が締め付けられる。

有限で可変のかたち、一方通行の時間。

輪郭を境界線と区別できない故に、

削っているのは己の業だろうか。

  

 

この虚しさを認めて生きるとは

それでも生きる方を向くとは

一体なんなのだろう。

小石をコツンと蹴ってみても、

濃霧に吸い込まれるように

音もなく消えていく。

そんな虚しさをどうやって

抱えていけばいいのだろう。

 

 

海を眺めていると、無形への情景が

感化される。水平線だけがすっと

伸び、その先には他の大陸があるだろうが

もしかしたらここが形の終着地点かも

しれないと思わせてくれる。

ここがかたちの終わり。

だから、少し淋しくて暖かいのだろう。

 

 

人間は、簡単に言えば意味をもとめる

動物だ。意味であるだけで飽きたらず、

生きる意味や己の存在価値を求める。

だからこそ、これから来る潮目は

避けられない。生を続けていくことは

果たして良いことなのか?という問いが

あらゆるかたちで提起されるはずだ。

尊厳死、AI、少子化、飢饉、核兵器

もうその一端が見え始めている。

 

生きるということが、存在そのもの

つまり愛へと投げかける線ならば

我々はあえてかたちであることを

望んでいるということになる。

愛であるより、愛したいということになる。

つまりは、在ることを認めたいという

ことである。

そういったかたちの本来性から

考えれば、かたちを続けていくことが

望まれているのか。しかしながら、

永遠を求める希求を読み間違い、

かたちに永遠性を求めるのは

祈りではなく願望だ。もっといえば、

かたちへの執着でしかない。

有限であることを受け入れ、それでも

なお永遠を見たいと願うことを

祈りと呼びたい。

でも、そのたぐいの読み間違いで

続けてきちゃいました\(^o^)/

みたいな結論も悪かないと思う。

間違うのは存在者が生きている

醍醐味なのだから。

 

 

 

生きることは別にいいことではない。

人間は自分をも騙す生き物だ。

困難な生を受け入れ、発狂しないように

自らに暗示をかけて朗らかに生を讃歌しよう

とするきらいがある。

だから、かたちの不条理に怒り

悲しむが、かたちとは元々そういうもの

であると思えば別段悲しくもなんともない。

かたちに平等であるという原理はない。

ただ、在るということに関しては

等価である。価値をつけたのは他ならぬ

人間だ。かたちは全く不平等、そして

等価。矛盾はしていないと思うのだが、

いかに。

 

 

 

 

 

 

罪悪感をすり減らさず かたちに挑む

 

 

全部自分以外のものに捧げてしまいたい

という欲求に駆られることがある。

清貧で自己犠牲をともなう生き方は、

一般に推奨される良い生き方の一例で

あろう。

かたちのあり方、生ききる

状態がわからない(確定の仕様がない)

から、この現象界に媚びることで

認められ且つ自分の罪悪感もすり減らせる

ところへ自分自身を投げ込もうとしている。

わからない不安定な状態から、

社会の要請を受けとる形である種の金型に

自分を溶かして流し込もうとしている。

どこまで傲慢で卑怯な人格なのだろう。

なにかに捧げることが目的になっては

いけない。あくまで私がかたちを

出しきる、つまり生ききる過程において

付随する現象でなくてはならない。

罪悪感はじぶんで持っていなくては。

すり減らすものじゃない。

 

 

 

不安なのは、生活の為じゃない。

最終的に死ぬからでもない。

根本的になにもわからずに生き、

死ぬからだ。この営みが一体なんなのか

わからないことを、認めることが

できないからだ。絶対にわからないと

頭ではわかったつもりでも、心が

期待するからだ。

認めてしまったら、かたちの輪郭が

すべてぐらぐら揺れ始めてしまう。

確かなことなど何もないとなれば、

死だけが落ち着ける足場となる。

 

かたちがかたちを超えるなぞ、

幻想か妄想だ。それをわかっていて、

ほんとうに直感的にわかった上で、

それでも求めるのは祈りか。

自分のものにしたいんじゃない、

誰一人救う答えじゃなくてもいい。

 

 

かたちじゃないと、輪郭を捉えられない

から、不完全であってもあえてかたちを求めたのだとすれば。

知るためにわざわざかたちだとすれば、

かたちの内に答えがなきゃいけないのでは?

でもわかるのは、かたちはかたちを

超えて無形な存在そのものを

かたちの源を考えることが出来ない。

形なしに、捉えることができない。

あらゆるかたちの見え方つまりせかいを

重ね合わせていけば、あるひとつの答えが

浮かび上がってくるのか。祈りの結晶体。

でもそれも結局かたちじゃないのか。

虚無の徒労感。

 

 

かたちのあるここと、かたちのないそこ。

その間に、重力のようになにかがあって

振り子のように或いは磁石のように

反発しあいながら均衡を保っている可能性も

捨てきれない。

なんて、やっぱり、心は期待している。

 

 

 

 

 

 

 

旅の途中

 

 

通りをいく人を眺めるのは楽しい。

どこから来たのか、何を考え

誰を想い、どこへ向かうのか。

 

中でも気になるのが、小さい子を

つれた女性。母になる、ということを

ぼんやり考える。

そして、これから生きていく子を見て

不思議な気持ちになる。

一個の生命体としてまだかたちに

なりきらない彼らは、いまここを

生きている。後先ない今を生きている。

それをたしなめたり見つめたりする

母もまた、今を生きている。

子を持つということは、今を生きること

でもあるようだ。

そして、子が成長するほどに

自分の死んだあとを考えるものなのかも

しれない。取り巻く環境が温かいもので

ありますように、幸せでありますように

と思うものなのかもしれない。

 

そして、その子供もいずれ子を持ち

同じように残る世を想い…という

ある種の繰り返しは、いつまで

続くのだろうか。

その繰り返しに加担するということは、

どのような意味を持つのか。

 

子を持つ人が何かしらの意味を見いだして

納得しているのかといえば、そうでない

場合の方が多いような気がする。

少なくとも、少子化抑制に貢献する

ためなどの理由は聞かない。

可愛いから、みんなそうするから、

老後寂しいから、親孝行になるから、

そういうものだと思ってたから、

できちゃったから…

そんなところだろう。

動機はなんであれ、産み育て

この社会とやらを存続させていくことに

貢献することが生きる意味である、

という形でぼんやり納得していくわけだ。

自ら考えるための教育がなされてこなかったのは、失敗ではなく成功なのだろうし、

実際その方が生活になじみやすい。

 

 

 

結局いつも、生きることを考えてしまう。

意味があるのではなく、意味であること。

本当に望むものはここにはないこと。

であるならば、なぜ、続ける?

これは誰かの問いではない、私自身の

問いだ。万人共通のものとして

傍観する立場はとりたくない。

 

もし、かたちから解放されたなら、

一体何がかたちを求めるのだろう。

エネルギーは何であろう。

なぜわざわざ有限を求めるのか。

あるいは、こちらのエネルギーに付随

する運動なのか。

 

考えるほど、生活における理想が

わからなくなる。

都会にすむか田舎にすむか、

家族を持つか持たぬか、

仕事をするかしないか、

洋食か和食か。それは好みか。

 

せっかく旅行に来ているのに、

できるだけはやく帰りたいなんて

笑ってしまうな。

 

 

 

 

 

 

 

詩/荒野にたつ

 

道具の手で黙々耕す農夫

言葉もなく微笑みあう子と兎

茹でた腸詰めのような赤子を抱く母

 

 暮れかかる西日の麦色に包まれて

 まるで発光する美しさ

 

 

瞬間にひそむ永遠

眺める者には影しか見せぬのに

在る者にはこんなにも惜しみない

 

それでもこの手を止めることはできまい

その耳を塞ぐこともできまい

いま、ここ、すべてを捉えたい

野心、否、傲慢か

 

振り絞り、超えんとする魂は

かたちのふりした虚しさや

ことばのふりした卑しさを

両手刀で斬りつける

 

返り血をぬらぬらと光らせながら

あてどなくあるく

亡霊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かたちを求めて

 

反出生主義。

おおよそ、生まれることで得られる幸福より

引き受ける苦痛の方が多いから、

生むべきではないという文脈で

語られる。

 

ほとんど反論のしようがない

ように思えるのは、「存在者側の価値観」

を根拠にしているからだ。

幸福の方が多ければ生んでもいい、

と考えるならそれはほんとうの意味での

反出生主義ではない。

この地点において、かたちであること自体の

不完全性、あるいは虚無に対するあり方が

問われている。

 

 

なぜかたちなのか。

これは解明できないからこそ、

かたちであれるという自己矛盾を

内包している。

せいぜいある解釈を述べることしか

できない。

 

では、どのようにあるべきか。

個々のかたちを出しきること、

そう考えているけれど

そもそもだしきるとはどういう

状態なのか。意味を求めるエネルギーを

燃焼させることだろうか。

あるいは時間を忘れるほど、瞬間に

捧げることか。

だとすれば、既存のかたに嵌め込んだり

夢中になれないことで時間を潰したり

することは、かたちの本来性に

反しているということになるのだろうか。

いずれにしても、生ききることを

私は望む。そして他の存在者が

生ききれない事情があるなら、

できうる限り取り除きたい。

かたちで解決できることで

絶望するなんて冗談じゃないと思うから。

 

 

 

人間のかたちとは、私のかたちとは。

もののかたちとは、こころのかたちとは。

かたちの生成消滅におけるリズムとは。

かたちを知ることのもう一方の

側面として、もののあわれを認める

という方向もある。

かたちは生まれ朽ちて消える。

その過程を憐れむのではなく、

儚さを慈しむ。

かたちがほどけていく様を

ただ眺める。

 

この点滅になんらかの解釈が

得られないことには、

点火に加わるわけにはいかない。

贈りものでなくても与える訳を

 

 

 

 

 

正論は傷つけることがある、だからぶつける

 

 

正論は傷つけることがある

 

世間一般の正しさであれ、個々の正義感

であれ、何かを選ぶ際正しい道というものを

意識するだろう。

この選択は、正しいのか。

 

 

望まない妊娠であったとき、

産むかいなか

不慮の事故により植物状態

なった人を、生かすかいなか

 

 

 

そこまで究極でないにしろ、

いつも選択するときに頭を掠める。

正しさとはなにか、正しさより

大切なことはあるか、誰に対する

正しさか。

とても難しいけれど、本当に大切に

したいこと、良いこととは限らないそれを

あぶり出すために

正論をぶつけるのは有効だと考えている。

傷つけるのは、その本当を隠している

見栄やエゴや臆病や怠慢であって、

本質ではないからだ。

 

 

正論を自分にぶつけるのは

本質に迫るため。他人にぶつけるのは

エールだ。

 

 

 

 

ことばの場を探す

 

言葉未然のことばを

どのように耕し育て、言葉として

収穫するか。それを考えている。

 

私において、どこでならより豊かに

ことばを見いだすことができるのか。

これは自分探しの親戚みたいなもの

かもしれない。幸福でいたいなら

腹六分目で納得させて、現実に没頭する

方が賢明だ。

わかっていても、やめられるもの

でもないのだけれど。

 

言葉にこだわっているのは、

単に道具としてだろうか。それとも

ことばの場所が言語的な意味での

言葉にまつわるからなのか。

夢中や好きをヒントに考えると、

手を動かして作ったり直したり

することはどうだろう。

没頭して時間を忘れるのは容易い。

ただそれは作業としての性格という

だけのことかもしれない。

今の仕事はどうか。震える言葉や

法則への気付きは働きはじめてから

得たものだ。けれど、仕事というより

読んだ本や観察した人から掘りさげた

結果という気もする。

物語性にある可能性を感じてはいる。

けれど、直接的な物語(小説や語り部)

というより、事象同士の見えない繋がりに

対する期待や納得感へのこだわり故

という向きがある。

怒りのもとになるのは、

生活への無自覚な埋没や装飾的な言葉。

そしてなにより、かたちで越えられることに

悲嘆して、死んだように生きたり

絶望(!)のまま死ぬことだ。

死を逃げ場にするなんて冒涜だ。

それにたいして、仕方なかったとか

誰が悪いとかはたまた教育やら

環境やらと御託を列べて安易に理解した

つもりになることが堪らなく憎い。

怒りはエネルギーでありベクトルである

ことを考えると、それらを克服する

ことへの寄与が発展土壌として

考えられるかもしれない。

 

愛を翻訳する。

それを忘れたわけではない。

誰に対してどのような方法で、

というところがうまく繋がっていない。

ただいえるのは、誰かのためにとか生産性

という理由では納得しないということ。

関心の7割は自分に向かっている

自己中のナルシな性質を軽視しない

方がいい。

 

慰めて生きていきたくない。

どうせかたちならば、徹底的に

かたちの本質に迫りたい。

埋没するのでも逃避するのでもなく、

あらゆる角度から幾多の手段を用い

かたちの共通項を引きずり出す。

 

 

 

 

 

″自分の感受性くらい、自分で守れ。

ばかものよ。″

 

ほんとうのことばは色褪せないものだなぁ。

頬ではなく心をビシャッと叩く。

決して乱暴ではない。優しくて

強くて凛とカッコいい。

こんな言葉を見いだすことができるほど、

豊かな土壌を耕したい。

 

そして、願わくば言葉そのものを生きたい。 

 

″めいめいが各自の独自な、

そして誠実な生活を求めることが

人生の目的でなくて、他の何物が

人生の目的だろうか。私はただ、

私自身として生きたいだけだ″

 

 

″いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾しはぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)″